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30 待合で 大きな声で 病気自慢 誰が一番 切られたかな

30 待合で 大きな声で 病気自慢 誰が一番 切られたかな

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待合で 大きな声で 病気自慢 誰が一番 切られたかな

解説 その1 短い版

 病院の待合では、「どうしたんや」という問いかけの言葉から始まり、手術しただの、抗がん剤を打っただの、いろんな話を聞くことができ、ちょっとした病気の勉強にもなる。場合によっては、インターネットのお陰で、国家試験前の下手な医学部6年生よりも、ずーっと自分の病気のことを知っている患者もいて、高学歴や英語が読めるせいなどの勉強のしすぎで、場合によってはPubmed検索をして大学院生でも頭を傾げるような論文をそれなりに解釈して「自分の病気にはこの薬はどうだろう」と提案する患者もいるくらいだ。

 しかしながら、病気をいくら知っていようが、重症な病気ほど治ることからは遠く、自分自身ではなんともならない現実を、いくら高次病院へ入院したかといえども、また新たに実感することになる。

 それが科学の限界だからだ。

 上は、そんな立場の繰り返しを行いつつも、しりすぼみになり、下は「お医者様のいうことは絶対」と思っていながらも、この医者で良かったのかと後悔する。

 病気に対しても、若きし頃の進路や恋愛と似たような大きな決定と小さな後悔を繰り返しながら、人生をまとうする。

そんなしりすぼみ人生の中でも、先輩面したくなることもある。また苦しさを理解できなくとも、とりあえず聞いてくれたらと思うこともある。

 そんなこんなを、ある時は自慢しながら、ある時は限界を認めながら、勉強した知識を誰かに話したくなるというものだろう。

 そんな患者という話し手からは、知識の自慢と限界の悲惨さを冷静に受け止めながらの、その悲惨さをさえも自慢するかのような、いわば辛さを笑いで跳ね飛ばすような、ニューモアを受け取ることがる。

 それは、高学歴の講釈たれであっても、中卒のご老人であっても、自分なりの解釈があり、気持ちの落ち着けどころを探したり見つけたりしている人の言葉は味があり、こんなことを言うのもなんだが、ある面愉快なこともある。

 たぶん、そうすることで、自分に自分の人生を納得させているのだろう。

 「2回目の手術なんか大したことない。俺なんか4回も切腹したで!」と。

解説 その2 長い版

 近年予約診療になりつつあるとはいうものの、患者としての病院待合室での待ち時間は長い。英語では患者のことを“patient”というが、“patient”という英語の単語には「辛抱つよい」とか「気長に我慢する」という別の意味がある。つまりが「患者とはそういうことだ。」と、この英語の単語は教えてくれる。

 その「患者」と「気長に我慢する」という関係は、たとえ患者が宇宙人であっても、同じだと思う。

 つまりが、繰り返すが、たとえ中国の意のままにならない宇宙保健機構があったとしても、「患者は気長に我慢するしなければならない」という永遠に解決できない問題がそこには存在し続ける。

 こんな、突拍子のない理論は、妄想から生まれたことだが、今のところこの妄想は、家内は別として、他人には迷惑をかけていないので、「真実」と、他人をオルグしておく。

 なぜなら、このこと(患者は忍耐強く待つ)に関しては、フランス語圏だってスペイン語圏だって、はたまた全然違う、左から右へ文字を書くアラブ文字圏だって、絶対に同じことである。と思う。という根拠をもとにして話すと、映画でしか見たことないが、「火星人にとっても、M78星雲に住んでいるウルトラファミリーにとっても『患者は気長に我慢しなければならない』ことは同じだ。」と思うからである。

 でも、そんな言語論から発生した宇宙人の忍耐関係まで派生する、三段論法的な外開きな社会学的推測の証明は、今後の研究者に任せたい。

 小生は、あくまでも、医学が絡まるこじんまりとした身近な事象と日本古来の短歌を繋げた解説をしなければ、読者が解説者を大ボラ吹きの変人として評価して、「いいね」をつけてくれないと思うからである。

 で、身近なこと。

 待合室では、たまに知人に会うこともあり、話をして、暇を潰せることもある。また、毎週あるいは毎月だいたい同じ時間帯に同じ主治医との予約があるためか、知人でない他の患者にも、よく顔をあわせることで、話をするようになることもあるだろう。それに、一度入院して、知り合いになった他の患者と退院後再会することも、まれにある。そんなこんなで、病院の待合は、患者の退屈しのぎの社交場となる。  

 この損得関係のない退屈しのぎの社交というのは、わりかた楽しいこともある。業界の宴会はなんとなく窮屈感を感じるが、同窓会の宴会は自由にのびのびとできるのに似ていると思う。しかしそんな場所でも、だんだんと、教え教えらの関係から、先輩面をしたがったり、逆に教えを請うたりして、それとなく優劣なるものを形成してしまうこともあり、それもまたヒューマンネイチャーというものであろう。

 それが外科系の待合となれば、当然「あんたはどこを切られたんや」という話になる。日本では胃がんが多いので、みぞおちのあたりが切られていることが多かったが、近年増えてきた大腸がんのため下腹部のこともある。肝臓ガンや、肺がんだとまた違った切開線になろう。最近は、内視鏡や腹腔鏡などのお陰で、同じガンといえども、皮膚切開なしとか、あっても1センチに満たない小さな切開が3−4箇所だけなんていうのも出てきたが、それでも、手術同意書には、「場合によっては(まさかの時は)、皮膚切開を入れる必要があることがある。」と念書をとるように書かれている。

 そんなこんなで、創の大きさ比べも含めて、なんやかやと手術自慢に花が咲く。中には「盲腸で一回」というビギナーもいれば、「俺は胃がんが一回。肝臓がんが二回。前立腺癌は放射線治療で、この前は大腸がんや」と、牢屋の長のような強者までいて、服をめくって見たくもない創まで見せてくれる。
 そう、このように、心を串刺しされた人たちが患者なのである。

この短歌にあうイラスト募集しています。詳しくは、miwashiro@mx2.wt.tiki.ne.jp (岩城まで)

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